No.10

2086年1月29日のこと


 確か昔、八十年くらい前にも、同じような物議を醸し出した事件はあったと思う。有名な事件だから、少しだけ聞いたことがある。
 学校に押し入り数多くの生徒を殺害した結果、死刑判決が下された容疑者の動機は、楽に死にたいが故だったとかなんとか。日本の死刑制度の死刑の手段は絞殺だが、これまた無駄に技術を費やしてしまったせいか、楽に死ねるらしい。それを知った容疑者は、それを動機に犯行をしたとかしないとか。
 結果的に彼は死刑になったらしいが、それは彼の思惑通りになったということを指すわけで。どちらにせよ被害者は胸が晴れない結果だった。
 全く、世の中には困った動機で困った事件を起こす奴が居るものだ。しかも大抵、そいつは並の奴より頭が良くて、自分がしてることが何なのか、ちゃんと理解してやがる。
 裁判員制度が普及して、もう長いこと経つが、まさか自分がこんな厄介な事件にぶち当たるとは思っても見なかった。


 七十年程前、死んだと確認された犬の蘇生に成功したグループは、今後五十年以内に、簡単なことでは人は死ななくなるだろうと予言した。
 確か血を抜いて塩水につけて、酸素百パーセントの人工血液を流し込んで電流を流したら生き返ったんだか。詳しくは知らない。
 魂が何であるかとか、何をもってして生とするか、死とするかがまだわかってない世の中でそんなことを言ったわけだが、まあ実際、世の中は本当にそうなってしまった。発展途上国では様相は違うが、ほとんどの先進国では人は死ななくなった。それはつまり、具体的にはどうなったかというと、今までの法と道徳がおっつかなくなったということだ。

 以前から、なんだったか、本人の細胞を培養して身体の一部をつくる技術、あれが実用化されて、大概の傷害事件は金で解決されるようになってしまって。それからさらに人が死ななくなったものだから、殺傷事件全般の裁判がおかしくなってしまった。
 帰らぬ人だからこそ重々しいものだったというのに、金をかければ魂は還るものになったのだ。まだ自分たちのような世代は人が逝ってしまうことの重さや道徳的な価値を知ってるが、はたしてその道徳が正しいことなのかがもうわからない。そしてこれが当たり前な世の中で育つ次の世代との、ジェネレーションギャップが恐ろしい。
 まあ例外もあるけれど。脳味噌ばかりは今までの積み重ねがあってこその器官だから再生できないらしい。だから交通事故とか飛び降りとかで、頭がかち割られたらアウトなわけでして。

 つい先日、テレビで流れたニュースはこんな内容だった。十七歳の少女が大通りで包丁を持って、そこらじゅうの人を無差別に切りつけたと。それだけなら、全く物騒な世の中になったと溜め息を吐く程度で済むもんだが、彼女の告白した動機が世間を騒がせたのだ。

『死んでみたかった』

 彼女はその数ヶ月前、飛び降り自殺を試み、失敗していたらしい。
 高層ビルはいくらでもあるが、その下には大抵人が居る。下の人間が犠牲になるのは良くないと考えたらしい彼女は人が居なさそうな建物を選んだ。結果、高さが足りなくて痛い目にあっただけに終わった。それでも彼女は死んでみたいという。
 単に死を経験したいだけならば、少し血を流すだけで構わないはずなのに、彼女は蘇生されるのを拒むという。というか、すでに二回ほど死んでるらしい。なのに、いやだからこそか、完璧な死を求めるという。
 二回も蘇生させる親の財力にも驚きだが(まだ人の命はそう安いものではない。そのままの意味で)、そんなに死にたがってる彼女を意地でも生き返らせる親の執念にも驚いてしまう。でもそんなものなのだろうか、親というものは。
 なぜ彼女がこのような手に出たかというと、彼女が飛び降りをして以来、彼女の親が彼女を軟禁状態にして、飛び降りを防いでいたらしい。それでも彼女は諦めず、久しぶりに出かけようと親を誘い、姿をくらまし、そしてこの有様だ。
 動物の生に対する執念というのは凄まじいものだと思うのだが、人間の死に対する執念も同じくらいのものなのかもしれない。

 そして2086年1月29日。判決が出た。彼女は死ねなかった。

 こうして今回の事件で以前から叫ばれていた『死ぬ自由』が、メディアを揺るがせて、ようやく憲法やら法律やらに組み込まれるかもしれないらしいが。まあ自分がその先を見ることはないだろう。なぜなら自分はきっと蘇生されないから。
 2086年1月29日のこと。僕は生き返らない。


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