No.3

『主人公』


 私が小説の主人公であることに気が付いたのは、立ち読みをしているときだった。たまたま手に取った本の中で同姓同名の人物が描かれているのを知ったときは少し動揺したが、その内容が半分程度、直近の私のできごとが描かれてるのに気が付いたときはもっと動揺した。焦りすら感じた。
 夕方のショッピングモールはそこそこ人がいる。けれど周囲の様子はこれっぽっちも頭に入ってこなかった。最初の数ページを読んだあとは気味が悪くなってしまって、ぱらぱらと先を拾い読みした。一見すると雑に見える読み方だが、私は緊張してその行為に及んでいたのだ。
 物語の内容はこうだった。私はとある人物と出会い、その人に猛烈に惹かれていく。しかしその人は物語の途中で死んでしまい、私はその人に対する感情を拗らせていき、最終的には克服する。内容としては目新しいものもない、面白い話というわけでもなかった。私の経験が描かれていることも含めて、なぜこんな本がこの世に存在しているのだ、と思った。
 過去の私の感じたことについての文章を読むのは不思議なものだった。そもそも私はそんなに物事を感じていただろうか。本の中の文章は明快に鮮明に繊細に私の感情を描き出していたが、私は本当にそう感じていたかどうか、疑わしい気持ちがあった。とはいえ読んだ内容が間違っているというわけでもなかった。ただ私は、日々こんなにもたくさんの言葉を受け取っていたのだろうか、こんなにもたくさんの言葉を創出していたのだろうかと、自分自身の思い出をかえりみてしまったのだ。
 私が真に動揺したのは尊敬するあの人……仮に先生と呼ぼう。先生が死んでしまうことだった。こんなのはくだらない偶然の一致で、出来の良い小説によくある、主人公と自分を重ねてしまうあれなのではないかとも思いたかったけれど、作品に出てくる細かな空気感や季節の巡りのタイミングまでも一致してるとなると、一笑に付すこともできないでいた。
 もしもこの本の主人公が本当に私ならば、この本は予言書だ。この先、先生は確実に死に、私はその事実に直面しなくてはならない。
 そんな妄想が頭によぎってすぐ、くだらない、という気持ちが湧いてきた。笑えない内容だと思った直後に湧いてくるこの気持ちはきっと反動だ。これはきっと、あまのじゃくな気持ちだ。
 でも真に受けている自分もいたものだから、私の頭の中は中間を行くことになった。つまりは、主人公かもしれないけど、この先の未来は変えられるのではないか、ということだ。
 幸か不幸か、先生が死を受ける現場に私は居合わせることになっている。細かい日付まで出ていた。八月の二十九日。その運命の日の内容を頭に刻み付けて、気味の悪い本を書棚に戻した。こんな本、買うわけがない。気持ちが悪すぎる。
 そのまま勢いづけて家に帰ってから、やっぱり買っておけばよかったかもしれないなと落ち込んだ。あの内容が知らない他人の手に渡るのも、気持ちのいい感じではなかった。

 運命の日の様子を、何度も夢に見た。たった一度しか、しかも立ち読みだったのに随分と印象に残ったものだ。
 あれから本屋には行けていない。またあの本にでくわしたらなんだか気まずいような気がするのだ。というのは些細なことで、本当は単純に行く機会がないだけだった。
 流れはこうだ。私は先生と一緒に夕暮れの帰り道を歩いている。暑くてじっとりとした日だ。速歩きで帰りたい先生に対してどうにも私の反応は鈍い。軽い熱中症で朦朧としていた私は、横断歩道で不意にぼんやりとしてしまい、車にはねられかける。そこを先生が身代わりになって、打ちどころが悪かったあの人はそのまま命を失ってしまう。
 つまりは私がしっかりしていればいいはずなのだ。未来改変ものの物語だと、回避した先でも運命が強引に実現しようとしてくるものだが、そんなことはありえないだろう。なんの根拠もないけれどそんな確信があって、私は一度きりのチャレンジをこなせばいいと考えた。

「今日は落ち着かない様子だね、何かあるの?」
 態度に出さないようつとめていたはずなのに、はみ出ていたらしい。私は少し考えてしまった。この話をしてもいいものか、と。
 考えてみれば別に秘密にする必要もない。むしろ先生に話したほうが先生自身も警戒できていいんじゃないだろうか。そもそもなんの根拠もない話だ。他愛のない、雑談として話そう。そう少し『考え込んで』しまった。
 右手から熱気を感じた。ああ、このシーンはひょっとして何度も夢に見たあれではないだろうか。でも夢ではいつも左手からやってきていたな――
「馬鹿っ!」
 左腕を引っ張られた。勢い余って先生と私の位置が逆になりかける。いけない。このままでは私はあの主人公になってしまう。
 全力をかけた。先生が、できれば私も無事でいられるように全力をかけて体勢を踏ん張った。車は私の右脚の先のほうを轢いて、少し進んでそのまま止まった。
「大丈夫ですか!?」
 しりもちをついた私と、派手に転んだ先生を見て、運転手が慌てた様子で降りてきた。おかしいな、あの小説じゃ轢き逃げして去ってしまうのに……変な余裕が頭に浮いて、ぼんやりとしてしまう。
「大丈夫なわけありますか、脚が轢かれましたよ」
 空を見上げてしまっている私に代わって、先生が口論する。ああ、しっかりした人だなあ、なんて呑気なことを考えて、それから涙が出た。先生が生きている。生きているからこういう感想が持てるんだ。

 これでもう私はあの主人公ではなくなったはずだ。そもそもそんな小説はなかったのかもしれないし、私は初めから主人公ではなかったのかもしれない。
 とすると、ここでこう語っている私は、いったい何者なんだろう?


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